上 杉 憲 実 公 と 永 享 の 乱
時は永享(えいきょう)十年、今から五百五十年前の室町時代、上野国の緑野郡平井郷(みどのごおりひらいのさと)《いまの群馬県藤岡市西平井》に「平井城」という大層りっぱな城がありました。この城は関東八州を束ねる関東管領上杉憲実(うえすぎ・のりざね)公が根拠地にした居城なので、ここの城下の威勢たるや、南関東の鎌倉を凌いで、めざましい発展ぶりを見せていました。
そもそも室町時代というのは、その昔、源氏の総大将源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、武家政治を始めて以来、「源氏」「北条氏」と百四十年間続いた鎌倉時代の政権を、後醍醐(ごだいご)天皇を中心とする「朝廷」「貴族」の勢力が打ち倒して、いわゆる「建武の中興(けんむのちゅうこう)」と呼ぶ「貴族政治」を復活しましたが、たちまち「足利尊氏(あしかがたかうじ)」が叛旗をひるがえして、再び武家政治を再興したものでありました。
足利氏は京都の室町に幕府を開いて、朝廷や貴族に対応した政権を執りましたが、昔からの武士の勢力が強い地盤の関東地方を重要視して、以前に鎌倉幕府が置かれた鎌倉に、関東管領を置き、足利将軍家の弟「足利基氏(あしかがもとうじ)」を任命して関東を治めさせました。関東管領を補佐する執事の役に就いた上杉氏は、足利尊氏の母親が出た名門で、足利氏と深い親戚関係にあり、力を合わせて関東の経営に当たっておりました。上杉氏は上野国(こうずけのくに)《いまの群馬県》を初め武蔵国(むさしのくに)《いまの埼玉県》、伊豆(いず)《いまの静岡県》、上総国(かずさのくに)《いまの千葉県》、下野国(しもつけのくに)《いまの栃木県》の守護を兼ね、強固な地盤を固めていました。やがて、管領足利氏は自らを公方(くぼう)と称して将軍を気取り、執事の上杉氏を関東管領と呼ぶにいたりました。
京都の室町幕府の政権も時代と共に土台骨がゆるみ、豪族同志の領地争いや一揆などの反乱が続き、将軍家の威光は衰える一方に向かいました。室町幕府の五代将軍足利義量(よしかず)が十七歳で就任後わずか二年で病死すると、次の将軍を選ぶ世つぎ争いが起こりました。一度は鎌倉にいる公方足利持氏も候補者に挙げられましたが、反対者があって立ち消え、卜筮(ぼくぜい)の法《うらない》によって将軍家の三番目の弟で出家していた「僧義円(そうぎえん)」が推挙され還俗して、六代将軍「足利義教(あしかがよしのり)」になりました。
さあ、納まらないのは鎌倉の公方足利持氏の心です。持氏は「われこそは本当の実力者で大将軍となって日本全国を治めるべき人物だ」との自負心があるから、ことあるごとに京都将軍に盾ついて「われは関東管領なり、なんで坊主あがりの還俗将軍に、膝を屈しなくてはならないのか」と暴言をはいてはばからなかったのです。隙があれば自立して、京都将軍足利義教を押し除けて、将軍になろうとの野心にかられておりました。
そんな険悪の状態になった鎌倉と京都の仲を取り持ち、何とか荒立たせないように心を砕き骨を折っていたのが、後に平井城初代城主になった、山之内上杉家の当主で関東管領上杉憲実公その人でありました。公方足利持氏の性格は、直情型で妥協を知らず、また政治というものが、わからない武将でしたので、ただ武力をもって諸豪族を押さえ付ける事だけに力を注ぎ、京都の将軍家にも度々反逆して、そのたびに上杉憲実公に諌められて思いとどまっていたのでした。
しかし、内心はおもしろからず、不満がつのる一方なので、世間には、いつか足利持氏が上杉憲実を征め滅ぼすだろうという噂が広まり、憲実公も警戒していました。
永享十年八月、鎌倉の公方足利持氏は先例を無視して、わが子「賢王丸(けんおうまる)」の元服の式を鎌倉鶴ケ岡八幡宮で行ない、名前の一字を京都将軍からいただくのが習慣になっていたのを破り、さらに「源氏の御先祖八幡太郎義家の御冥加にあやかって」と義久(よしひさ)と命名し、源氏の嫡流、武家の頭領としての名前を、わが子に付けて、公然と京都将軍に反旗をひるがえしたのでした。管領上杉憲実公が「京都に上って元服し、将軍の一字を拝領する先例を、勝手に変えることはまかりなりません」と諌めましたが、足利持氏は「われこそは足利尊氏の後裔であり、なんでわが子が還俗将軍などに名付け親になってもらわなくてはならないのか」と全く取り合いません。
早速、関東の諸侯を鎌倉の鶴ケ岡八幡宮に集めて、盛大に元服の式を強行しました。それは鎌倉公方の権勢を世に示す絢爛たるものでありました。こうした鼻たかだかの儀式の高座にあって、足利持氏は居並ぶ武将を眺め渡しているうち、いつしかかっと怒りの色を顔面に表わしていました。そこに控えているはずの管領上杉憲実公の姿が見えなかったからであります。
管領上杉憲実公は立場上、将軍家に叛逆するような集まりには出るわけにはいかないと、仮病を使って家に引きこもっていました。鶴ケ岡八幡宮から憲実公の住む鎌倉山之内までは「巨福呂坂(こふくろざか)」という一本道を馬でかければ四半時(約三十分)ばかりの距離でしかありません。身の危険を感じた憲実公は重臣「長尾実景(ながおさねかげ)」「大石重仲(おおいししげなか)」らの勧めで、その夜のうちに鎌倉を抜け出しました。憲実公は手勢千三百騎をひきつれ、扇ケ谷(おおぎがやつ)の上杉持朝(もちとも)、深谷上杉の庁鼻和憲信(ちょうばなわのりのぶ)等をしたがえて、上野国(今の群馬県)の平井城に引き揚げて入城しました。この平井城は鎌倉の不穏な空気を察してあらかじめ、家臣の「長尾忠房(ながおただふさ)」に命じて天然の要害を利用し、父祖からの守護の地に築かせておいたものでありました。長尾忠房は当時、太田道灌と並び称される築城の名手で、群馬郡子持村の「白井城(しらいじょう)」多胡郡吉井町の「一郷山城(いちごうさんじょう)」「新堀城(にいぼりじょう)」等々のたくさんの名城を築いた人でした。この時、憲実公の入った平井城は現在の本丸と平井金山城の部分であったと考えられます。
さて性格が荒く、直情型の持氏は憲実公の鎌倉離脱を知ると「おのれ憲実め、目にものを見せてくれる」とすぐさま、翌日の八月十五日に「一色直兼(いっしきなおかね)」に兵三千余騎をあずけて急追させ、十六日には自身が兵五千余騎を率いて武州高安寺に出陣してきました。憲実公は「もはやこれまで、かくなるうえは持氏殿と一戦をまじえ、京都将軍に忠誠を示すのみ」とし、家臣長尾定景に命じて京都の将軍へ機急をつげてやりました。
一方、平井城は鮎川(あゆがわ)と鏑川(かぶらかわ)を挟さんだ天険の要害城で、かねてより今日の急あることを予想して、縄張かたく、武器や食糧、薪などいくさに必要なものを準備しておいたので、表門を堅く閉ざして立て篭もれば、到底攻め落とせるものではありません。しかも鮎川を挟んだ対岸には、高山党(たかやまとう)のたてこもる天屋城(てんやじょう)が高台にどっしりとかまえていました。寄せ手の「結城」「千葉」「佐竹」「一色」「武蔵七党」の将兵は神流川を渡り、藤岡の南部の神田(じんだ)に陣をしき、兵八千で平井金山城をとり囲みました。多くの旗差し物を振りかざし、陣太鼓をうちならし、夜になると、何千という篝火を「ふせご」にたいて気勢を上げました。一色直兼が大音声でよばわるには「我こそは鎌倉殿の旗の本、憲実殿のみ印ちょうだいにまいった。いざ城よりいでて勝負しろ」。それを聞いた憲実公は「我ら上杉は京都より将軍の命を受け関東の平穏を守るのが役目、世を乱す持氏一党こそ、すべてこの手で成敗してくれる」とばかり大声で叫び返してやりました。
都からの援軍を待つ篭城戦というのはゆとりのあるもので、囲む八千騎に篭(こも)る千三百騎、四分の一にも満たない兵力でも充分に力を発揮できます。しかも、篭る上杉勢は、家臣扇ケ谷「上杉持朝」、庁鼻和「上杉憲信」、武蔵の国人「永井三郎」「小山田小四郎」「那須の太郎明資」らが憲実公に命を預けて必死に働くが、寄せ手は持氏に無理やりかりだされ、出撃して来たよせ集めで、数こそ多いが、地の利を得た憲実軍に自由に翻弄されてしまいました。油断すれば背後より襲われ、追撃すれば伏兵にあうのです。憲実は展望の利く山城の本丸におり、寄せ手の兵力と動きが手にとる様にわかるので、次々と伝令を繰り出し、部下を手足の様に動かすのですから戦いは一方的とならざるを得ません。今でも当時でも、情報をより早く正確に多く持った者がその戦いの勝者となるのは変わりありません。こんな状況下で、何倍の兵力を持ってしても平井金山城はびくともしませんでした。一方、関東より急の知らせを受けた京都将軍足利義教は驚き慌てて、後花園天皇より詔(御製一首)を賜り、持氏追討の綸旨を戴いて名分を整え、上杉持房(うえすぎもちふさ)と越前の朝倉孝景、美濃の土岐持益(どきもちます)ら二万五千の兵を先陣として出撃させてよこしました。
こうなると数をたのみの持氏は、今までと状況が一変したので浮足立ちました。篭城すること三ケ月、上杉憲実の軍勢はほらの音高く、陣太鼓を打ち鳴らし、十月十六日平井城を出発して「分倍河原(ぶばいがわら)」(今の北多摩郡府中市西南)に陣を敷きました。越後の長尾実景も越後の兵を率いて上野国に入り、憲実公に従いました。足利持氏方は戦っては敗れ、味方には裏切りが続き、それ以上なすすべがなく、ついに武蔵国(今の埼玉県)称名寺に逃げ込み髪を下ろして降伏しました。
以上のように戦いは一方的な憲実方の勝利に終わったのですが、憲実公の憲実公らしさは、この後の行動によく現れています。憲実公は持氏を鎌倉公方就任の願いを幾度となく出しました。日本外史によれば「使者十余反す」とあるのでそうとうの回数嘆願したことはまちがいありません。
しかし、将軍義教は持氏のこれまでの行動を大いに憎しみ、また、その復讐を恐れついにこれを許すことはありませんでした。持氏は寺に火を放ち、一族の部将三十数名と共に自害し持氏夫人以下数十人の女房もあとをおったのでした。こうしてここに八十年に渡って続いた鎌倉府は滅亡いたしました。
京都将軍は事の首尾を大いに喜び、労をねぎらい憲実公に「東国を任せる」と命ぜられました。しかし、憲実公は自ら持氏の菩堤寺、長春院に退き、持氏の遺影の前で切腹しようとしました。主君を死に追いやった自分を深く反省しての事でありましょう。それは家臣により引き留められましたが、髪を下ろして出家をしてしまいました。 その後、永享十二年持氏方の残党「結城氏朝(ゆうきうじとも)」が再び兵を上げました。いわゆる「結城の乱(ゆうきのらん)」がおこりました。幕府は結城氏追討の命令を出し、十万以上の軍勢を動員しました。しかし、これを簡単に鎮圧する事ができません。そこで幕府は出家していた憲実に出撃の依頼を促しました。憲実は再三に渡り、これを断りましたが、幕府が万が一にも敗れるような事がありますと、東日本全体が乱れることになりかねませんので、命令を受けて、結城の乱を見事に鎮圧してしまいました。以後関東の実権は、百数十年に渡り、関東管領上杉氏の手中に納まり、平井城とともに繁栄を続けました。
当時の室町幕府は、支配権力がゆるみ、農民一揆などの反乱が日本全国に発生し、戦国時代へと移り代わる時代でありました。そのような時に上杉憲実公は関東管領としてよく関東全域を治め、戦っては緒戦にことごとく勝利を収め、領国の統治もうまく成し、詩歌を愛し、学問にも優れ、永享十一年には下野国(しもつけのくに)《今の栃木県》に古代の国学の遺跡といわれる「足利学校」を興し、学僧を招いて多くの学生を養成したり、相模国(さがみのくに)《今の神奈川県》の金沢文庫を再建したりしました。また深く神仏を敬い、越後国(えちごのくに)塩沢《今の新潟県塩沢町》の雲洞庵をはじめ、上野国子持《今の群馬県子持村》の双林寺、西平井《今の藤岡市西平井》にある仙蔵寺、東平井の円満寺等をひらき、また三島神社もここに移したのです。その人柄の高潔さは様々な古文書に残されており、公を称えるに「諸国の人、ほめざるはなし」とあります。
しかし、憲実公は「結城の乱」で、心ならずも陣頭に立った事と、持氏の遺児(安王丸、春王丸)を死に追いやるはめになった事を、おおいに悔やみました。そこで主家への叛逆の罪をわび、伊豆の国清寺にこもり、その後僧侶となって、諸国行脚の旅に出て、周防国(今の山口県)深川大寧寺で没しました。今でも墓はそこに残っているとの事であります。
憲実の深い学識と聡明な人格は当時の禅僧の残した文章に「蔭涼軒日録(おんりょうけんにちろく)」というのがありますが、その中にも「非常の人」とか「人みなその風をのぞんで敬せざるはなし」と記され、第一級の讃辞を受けております。
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監 修 関 口 正 己